2013年3月11日月曜日

愛着を手放すむずかしさ



 まことにありがたいことに、段ボール箱に詰まった本がぼつぼつと送られてくる。小さな箱に数十冊の本を詰めて送ってくださる方もいれば、もちあげるのも大変な大きな箱を一度に何十個も送ってくださる方もおられる。後者のなかに、遠い昔の同級生から送られた箱があった。

  川田秀明くんは東京千代田区立九段中学の同級生で、大学を卒業後、ムービーカメラマンんとして世界中をまわってきた男だ。ぼくがフジテレビの報道局にディレクターとして勤務していたころ、彼は映画館で上映するニュース映画の撮影をしていた。若い人は知らないだろうが、映画館でも本編のほかに、毎週新しいニュース映像を提供していた時代があったのだ。

  1968年、全共闘運動が激化し、東京大学の安田講堂に籠城した学生たちと機動隊が火炎瓶と放水の応酬をくり返したことがあった。その緊迫した現場を中継するチームの一員だったぼくは、そこで大きなキャメラをまわしている川田くんに会った。彼が仕事をする姿を見たのはそれがはじめてだった。

スワノセ・第四世界
  1971年にフジテレビを退社し、カリフォルニア州バークレーを拠点にしていたぼくは、73年に一時帰国して『スワノセ第四世界』というドキュメンタリー映画を自主制作した。そのときに撮影監督を依頼したのが川田くんだった。彼は水中撮影を専門としていた助手の沢田喬くんを引きつれてチームに参加してくれた。

  自主映画は75年に完成した。国内の上映を終えたぼくはバークレーにもどり、そこを拠点にアメリカ各地で上映の旅をつづけた。映画はオランダやオーストラリアなどでも上映された。川田くんと会う機会も次第に少なくなっていったが、テレビのドキュメンタリー番組で世界の辺境を渡り歩いているという話は耳にしていた。


 その後いろいろあって、ぼくは伊東に移住し、ライブラリーづくりに参加することになった。そして何十箱もの段ボールの中身をつうじて、再び川田くんの面影と再開した。

 箱をあけてみて、川田くんがヘビーな読書家だったことを、はじめた知った。写真集や映画関係の本が多いことには驚かなかったが、箱には文学、落語、社会問題など、じつに幅広い分野の本が、惜しげもなく大量に詰められていた。きっと書斎が空っぽになったに違いないと感じた。

 なかの1箱にヒモで縛った3冊の本があり、メモ用紙が留められていた。メモには「もしこれが図書選択基準から外れているようなら、お手数ですが返送してください」とあった。彼が愛してやまないその本は土門拳の『筑豊の子供たち』と写真家ダイアン・アーバスの写真集2冊だった。


土門拳

Diane Arbus

 川田くんの気持ちが痛いほどにわかった。古希を過ぎ、残り時間を考えれば、愛蔵書を散逸させるよりは1箇所に保存してもらおう。そう思う気持ちはぼくも同じだ。だが、何十年も愛しつづけた3冊の本だけは、もし寄贈先に用がなければ、やはり返してもらい、手元に置いておこう。愛着を手放すことの悩ましさに深く共感した。川田くん、ありがとう。大切に保存させていただきます。

上野圭一