重憲さんは湘南育ち。生えぬきの慶応ボーイ(慶応義塾大学のOB会である三田会の会長職にもあった)であり、JALの海外勤務で世間の波にもまれたのち、創設者であるお父上を継いでサザンクロスの社長となり、つねに斯界をリードしてきた。社長の席をご子息の太一さんに譲ってからはオーナーとして、サザンクロスのみならず、日本のゴルフ場やリゾートホテル経営の将来像を描きながら、その実現のための人脈を広げることに専念されておられた。ライブラリーは彼が描いた将来像における布石の第一歩だった。
旧満州の引揚者であり、早稲田大学で学び、大衆文化の牽引者であるテレビディレクターをへて翻訳・著述家となった野暮なぼくとは対照的に、洗練された人生を歩んでこられた重憲さんは、2年前のある日、「伊豆新聞」に掲載されたぼくの小さな紹介記事を見て、なぜか「探していたのはこの男だ」とひらめいたという。
若いころにパリの5月革命、プラハの春、サンフランシスコのサマー・オブ・ラブなどに共感した記憶をもつ同世代のふたりは初対面から気脈のつうじる間柄となり、たちまち無二の親友となった。まるで20代に戻ったかのように、ふたりは連日携帯メールで他愛のないやりとりを交わしつづけ、暇さえあればホテル緑風園の露天風呂で、ファミレスのジョナサンで、サザンクロスの特別室で、尽きぬ話に打ち興じた。
その重憲さんが、かき消すようにいなくなった。あのよく響く甘い声、あの無邪気な笑顔、頻繁に口から飛び出したあのスマートなカタカナことばが、不意に虚空に吸い込まれて消え果てた。
ひとつ思い浮かぶのは「癒しと憩いのライブラリー」という名称のアタマに「北村重憲記念」の6文字を刻みこむことだ。創業者である重憲さんのご父君はサザンクロスの玄関先や庭園にお名前を刻んだ石柱や銅像を遺されている。だが、おしゃれで照れ屋の重憲さんはその手のモニュメントは好まないだろう。彼が描いた布石の第一歩であるライブラリーこそ、本好きだった重憲さんの名前を刻むにふさわしい場である。というわけで「癒しと憩いのライブラリー」は開館の日から、「北村重憲記念・癒しと憩いのライブラリー」としてお披露目させていただくことになる。ご了承いただきたい。
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