7月27日、当ライブラリーは予定どおり無事に開館した。式典はサザンクロスリゾートの北村太一社長、佃伊東市長、帯津良一当館名誉会長の挨拶と型どおりに進み、ボイスヒーラーの常見幸代さんによる「癒しの歌声」の披露で幕を閉じた。
開館前の1週間は疾風怒濤の日々だった。倉庫に天井まで積み上げた段ボール箱の山を少しずつとり崩し、台車に乗せて書棚の前まで運び、仕分けをして書棚に収める棚差しの作業が朝から晩までつづいた。ブックピープルの皆さん(本好きのボランティアたち)が文字どおり精根尽き果てるまで働いてくれたおかげで、ピカデリー広場のがらんとした空間に、開館前夜にはなんとかライブラリーらしい風情をかもしだすことができた。
今年2月からこのホームページをつうじて皆さんに寄贈をお願いしてきたが、短期間にこれほど大量の、しかも貴重な本の数々が集まるとは、正直、予想していなかった。本の寄贈は開館当日も、その翌日もつづいていた。寄贈された本はすでに書棚の収容量をはるかにオーバーし、倉庫にはまた段ボールの山ができはじめている。読書家たちのこの熱い善意はいつまでつづくのだろうか。われわれブックピープルは嬉しい悲鳴をこえて、空恐ろしいような気持ちにかられはじめた。
寄贈のお願いはひとまず取り下げて、このへんで着払いによる本の受け容れを打ち止めにしなければならない。倉庫の収納量にも限界があり、残念ながらこれ以上の寄贈本を保管しておく場所がないのだ。寄贈を申し出てくださる読書家たちの思いを無にするのはまことに無念だが、つぎの手を考えつくまで、しばらくお待ちいただきたい。
「つぎの手」の萌芽はすでに生まれている。開館式に寄贈者でもある辻信一(文化人類学者・環境活動家)さんがおみえになっていた。辻さんは「このモデルは使える。このモデルを使えば、全国各地でそれぞれのテーマに特化した〈寄贈による私設図書館〉ができるはずだ。ぼくも懇意にしているお寺に頼んで〈エコロジーに特化したライブラリー〉をつくってみたい」と語っていたからだ。そういえばぼく自身も、開館式でおなじ趣旨のビジョンについてお話していた。そのあたりに将来の可能性を感じている。
というわけで、多くの寄贈者に深謝するとともに、着払いによる寄贈受付は本日をもって一時停止させていただくことを、あらためてお知らせする次第である。
2013年8月3日土曜日
2013年6月28日金曜日
ウッドピープル
昨夜19時から、いよいよ書棚の組み立てと建て込みがはじまった。19時からになったのは、作業にあたるメンバーが全員プロの大工さん、室内装飾屋さんなどで、それぞれ自分の仕事が終わってからボランティアで集まって頂いたからだった。
声をかけて下さったのは伊東では知らぬ人のない祇園寿司の若社長、守谷匡司さん。故北村重憲オーナーの親友だった守谷さんは横浜までみずから大型トラックを運転して、何トンもある書棚の材料を運んでくださった。そして所属する伊東市商工会青年部建築会の若手メンバーを12人も集めて、ライブラリーができる空間であるサザンクロスリゾートのピカデリー広場に駆けつけてくださった。
山と積まれる梱包を解いた12人の屈強な男たちが2人一組で一斉に板を取り出し、みるみるうちに書棚が組み立てられ、壁に設置されていく光景はまさに圧巻だった。
寄贈された本一冊一冊に寄贈者名のシールと管理用のバーコードシールを貼り、本と寄贈者の情報をコンピュータに入力する静的な作業を担当しているわれわれ「ブックピープル」と、書棚をはじめライブラリーの内装づくりという動的な作業を担当してくださる彼ら「ウッドピープル」が、はじめて顔をあわせたのが昨夜のことだった。
大量に出てくる梱包材やクッション材を片端から拾ってゴミ袋に入れ、お茶やお茶菓子を用意し、記録写真を撮るのがブックピープル女性陣の仕事だった。お茶菓子は故オーナー夫人からの差し入れだった。
昨夜の作業はわずか2時間で終了した。作業に立ち会ってくださったフロント課長の山口幸也さんがウッドピープルに丁重にお礼をのべ、最後に「どうぞ温泉で汗を流して行ってください」とつけ加えた。さすがは故北村オーナーの口癖「ホスピタタリティ」の精神を受け継ぐスタッフであると感心した。残念ながら12人は汗を流すこともなく一斉に夜の闇に消えていった。「腹がへってるんですよ。まだ夕食を食べてないから」と守谷さんが
笑っていった。
7月7日にはこのピカデリー広場と隣のレイラニというスペースで「北村重憲さんを偲ぶ会」が開催される。参列者には「故人の好みで、正装ではなくアロハシャツでお越しください」とのことである。
声をかけて下さったのは伊東では知らぬ人のない祇園寿司の若社長、守谷匡司さん。故北村重憲オーナーの親友だった守谷さんは横浜までみずから大型トラックを運転して、何トンもある書棚の材料を運んでくださった。そして所属する伊東市商工会青年部建築会の若手メンバーを12人も集めて、ライブラリーができる空間であるサザンクロスリゾートのピカデリー広場に駆けつけてくださった。

寄贈された本一冊一冊に寄贈者名のシールと管理用のバーコードシールを貼り、本と寄贈者の情報をコンピュータに入力する静的な作業を担当しているわれわれ「ブックピープル」と、書棚をはじめライブラリーの内装づくりという動的な作業を担当してくださる彼ら「ウッドピープル」が、はじめて顔をあわせたのが昨夜のことだった。
大量に出てくる梱包材やクッション材を片端から拾ってゴミ袋に入れ、お茶やお茶菓子を用意し、記録写真を撮るのがブックピープル女性陣の仕事だった。お茶菓子は故オーナー夫人からの差し入れだった。

笑っていった。
7月7日にはこのピカデリー広場と隣のレイラニというスペースで「北村重憲さんを偲ぶ会」が開催される。参列者には「故人の好みで、正装ではなくアロハシャツでお越しください」とのことである。
2013年6月21日金曜日
メガソーラー
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東京新聞:ゴルフ場が発電所 |
サザンのゴルフ場は現在18ホールが使われている。かつて賑わっていた9ホールは空き地や練習場になっている。いつかふたりでそのあたりを散歩していていたとき、北村さんが「近くに送電線があればなあ。残念だ」といったのを思い出したのだ。
北村さんは「持続可能なリゾート」を模索されていた。ホールの跡地をはじめ、風光明媚な未利用地を有効利用することでその構想を実現させるためのさまざまな計画をぼくに語ってくれた。その計画のひとつにメガソーラーがあった。エネルギー企業に土地を貸して大規模太陽光発電所をつくり、施設の電気をクリーンなものに変えながら地代と売電で安定収入を確保しようと考えていたらしい。ただ、そのときの北村さんの知識では、近くに送電線がないと売電ができない、送電線を自前でつくるには莫大な費用がかかりすぎると考えていたらしい。それが「残念だ」になったのだろう。
しかし「東京新聞」の記事を読むかぎり、必ずしもそんなことはないのではないかと思われる。というのも、それは群馬県の閉鎖したゴルフ場「榛名CC」の跡地にソフトバンク子会社「SBエナジー」が260 万キロワット時のメガソーラーを建設したことを伝えている記事だからだ。ゴルフ場近辺に送電線など走っているはずがない。それも「SBエナジー」が負担したのではないか。工事は半年以内で完成し、その跡地の現在の所有者である村には毎年、売電収入の3%(約400 万円)と固定資産税が入る計算だという。
記事によると、閉鎖したゴルフ場跡だけではなく、現在営業しているゴルフ場でもゴルフ収入の足しにしようとメガソーラー計画が進んでいるという。そのひとつ、老舗の「鬼怒川CC」も使われていない一部のホールを利用して北関東最大級の施設が2015年春に稼働する予定らしい。
「癒しと憩いのライブラリー」も、じつは北村さんの「持続可能なリゾート」計画の旗揚げ事業として企画されたものだった。費用もさほどかからず、再生可能な読書の流れが実現できると考えたからだった。もし北村さんが今朝の「東京新聞」を読んだら、すぐにでも「SBエナジー」に電話をかけるのではないか? そんなことを考えた。
2013年6月10日月曜日
北村重憲さん
悲しいお知らせをしなければならない。「癒しと憩いのライブラリー」の生みの親であり、われわれブックピープルにとって最強の庇護者であったサザンクロスリゾートのオーナー北村重憲さんが5月半ば、持病を悪化させて急逝された。
重憲さんは湘南育ち。生えぬきの慶応ボーイ(慶応義塾大学のOB会である三田会の会長職にもあった)であり、JALの海外勤務で世間の波にもまれたのち、創設者であるお父上を継いでサザンクロスの社長となり、つねに斯界をリードしてきた。社長の席をご子息の太一さんに譲ってからはオーナーとして、サザンクロスのみならず、日本のゴルフ場やリゾートホテル経営の将来像を描きながら、その実現のための人脈を広げることに専念されておられた。ライブラリーは彼が描いた将来像における布石の第一歩だった。
旧満州の引揚者であり、早稲田大学で学び、大衆文化の牽引者であるテレビディレクターをへて翻訳・著述家となった野暮なぼくとは対照的に、洗練された人生を歩んでこられた重憲さんは、2年前のある日、「伊豆新聞」に掲載されたぼくの小さな紹介記事を見て、なぜか「探していたのはこの男だ」とひらめいたという。
若いころにパリの5月革命、プラハの春、サンフランシスコのサマー・オブ・ラブなどに共感した記憶をもつ同世代のふたりは初対面から気脈のつうじる間柄となり、たちまち無二の親友となった。まるで20代に戻ったかのように、ふたりは連日携帯メールで他愛のないやりとりを交わしつづけ、暇さえあればホテル緑風園の露天風呂で、ファミレスのジョナサンで、サザンクロスの特別室で、尽きぬ話に打ち興じた。
その重憲さんが、かき消すようにいなくなった。あのよく響く甘い声、あの無邪気な笑顔、頻繁に口から飛び出したあのスマートなカタカナことばが、不意に虚空に吸い込まれて消え果てた。
幸い、ご子息の北村太一社長がお父上の遺志を継ぎたいと伝えてくださったおかげで、重憲さんが熱心に語っていたようなおしゃれな空間を創造することはできないかもしれないが、ライブラリーはなんとか予定どおりに開館式を迎えることができそうだ。残された者にできることはなにか、このところそればかりを考えている。
ひとつ思い浮かぶのは「癒しと憩いのライブラリー」という名称のアタマに「北村重憲記念」の6文字を刻みこむことだ。創業者である重憲さんのご父君はサザンクロスの玄関先や庭園にお名前を刻んだ石柱や銅像を遺されている。だが、おしゃれで照れ屋の重憲さんはその手のモニュメントは好まないだろう。彼が描いた布石の第一歩であるライブラリーこそ、本好きだった重憲さんの名前を刻むにふさわしい場である。というわけで「癒しと憩いのライブラリー」は開館の日から、「北村重憲記念・癒しと憩いのライブラリー」としてお披露目させていただくことになる。ご了承いただきたい。
重憲さんは湘南育ち。生えぬきの慶応ボーイ(慶応義塾大学のOB会である三田会の会長職にもあった)であり、JALの海外勤務で世間の波にもまれたのち、創設者であるお父上を継いでサザンクロスの社長となり、つねに斯界をリードしてきた。社長の席をご子息の太一さんに譲ってからはオーナーとして、サザンクロスのみならず、日本のゴルフ場やリゾートホテル経営の将来像を描きながら、その実現のための人脈を広げることに専念されておられた。ライブラリーは彼が描いた将来像における布石の第一歩だった。
旧満州の引揚者であり、早稲田大学で学び、大衆文化の牽引者であるテレビディレクターをへて翻訳・著述家となった野暮なぼくとは対照的に、洗練された人生を歩んでこられた重憲さんは、2年前のある日、「伊豆新聞」に掲載されたぼくの小さな紹介記事を見て、なぜか「探していたのはこの男だ」とひらめいたという。
若いころにパリの5月革命、プラハの春、サンフランシスコのサマー・オブ・ラブなどに共感した記憶をもつ同世代のふたりは初対面から気脈のつうじる間柄となり、たちまち無二の親友となった。まるで20代に戻ったかのように、ふたりは連日携帯メールで他愛のないやりとりを交わしつづけ、暇さえあればホテル緑風園の露天風呂で、ファミレスのジョナサンで、サザンクロスの特別室で、尽きぬ話に打ち興じた。
その重憲さんが、かき消すようにいなくなった。あのよく響く甘い声、あの無邪気な笑顔、頻繁に口から飛び出したあのスマートなカタカナことばが、不意に虚空に吸い込まれて消え果てた。
ひとつ思い浮かぶのは「癒しと憩いのライブラリー」という名称のアタマに「北村重憲記念」の6文字を刻みこむことだ。創業者である重憲さんのご父君はサザンクロスの玄関先や庭園にお名前を刻んだ石柱や銅像を遺されている。だが、おしゃれで照れ屋の重憲さんはその手のモニュメントは好まないだろう。彼が描いた布石の第一歩であるライブラリーこそ、本好きだった重憲さんの名前を刻むにふさわしい場である。というわけで「癒しと憩いのライブラリー」は開館の日から、「北村重憲記念・癒しと憩いのライブラリー」としてお披露目させていただくことになる。ご了承いただきたい。
2013年5月9日木曜日
「寄贈」を人生の節目に
大量の愛蔵書を惜しげもなく当ライブラリーに寄贈してくれた友人の川田秀明くんのことは前回のこの欄で書いた。おなじような人はたくさんいる。ぼくが存じあげない方も多いが、なかには川田くんのように、友人や知人からの大量寄贈もある。
久保田千穂子さんは、ぼくがよく行く伊東駅近くのレストラン「のり」の常連客で、スナックのママさんだそうだ(ぼくは下戸なので、まだその店には行っていないが)。久保田さんはレストランでも、食事がテーブルに出てくるまで、いつも本を読んでいる。
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CAVE DE VIN NORI |
その久保田さんが段ボール箱何十ケ口も寄贈してくださった。川田くんと同じく、たぶん書斎が空っぽになったにちがいない。彼女の寄贈本はほとんどが日本の作家の小説だ。それも大半がきれいな単行本で、文庫は少ない。小説がほんとうに好きなのだ。
先日、また「のり」でお会いした彼女にお礼をいったら、「どうしても手元に置いておきたいのは子どものころから好きだった『赤毛のアン』や『秘密の花園』とかの数冊だけだということがわかったのよ」といっていた。
昨年、サザンクロスリゾートの温水プールでワッツ(ウォーター指圧)のセラピーを経験させてくださったアクアセラピストの矢野真弓さんも大量寄贈者のひとり。矢野さんの寄贈本は「スポーツ科学」「水」「セラピー」「リラクセーション」「変性意識」などにまつわるものがほとんどで、まさに彼女の専門領域の本ばかりだった。
矢野さん、久保田さん、川田くんに共通しているのは、それぞれが人生の大半をかけて知識を学び、感動を与えられ、愛着をもっていた本の数々を惜しげもなく次世代の人たちに手渡すことに同意してくださったという点である。
恐らくその人たちは、長年手元に置いてきた、旧友のような本の数々を一括してライブラリーに寄贈するという行為をつうじて、人生に節目をつけようとしているのではないか。今後のライフスタイルの目標を、断捨離によって得た、「持たない」ことによる「軽み」の境地にもとめているのではないか。そんな気がする。
2013年3月11日月曜日
愛着を手放すむずかしさ
まことにありがたいことに、段ボール箱に詰まった本がぼつぼつと送られてくる。小さな箱に数十冊の本を詰めて送ってくださる方もいれば、もちあげるのも大変な大きな箱を一度に何十個も送ってくださる方もおられる。後者のなかに、遠い昔の同級生から送られた箱があった。
川田秀明くんは東京千代田区立九段中学の同級生で、大学を卒業後、ムービーカメラマンんとして世界中をまわってきた男だ。ぼくがフジテレビの報道局にディレクターとして勤務していたころ、彼は映画館で上映するニュース映画の撮影をしていた。若い人は知らないだろうが、映画館でも本編のほかに、毎週新しいニュース映像を提供していた時代があったのだ。
1968年、全共闘運動が激化し、東京大学の安田講堂に籠城した学生たちと機動隊が火炎瓶と放水の応酬をくり返したことがあった。その緊迫した現場を中継するチームの一員だったぼくは、そこで大きなキャメラをまわしている川田くんに会った。彼が仕事をする姿を見たのはそれがはじめてだった。
スワノセ・第四世界 |
自主映画は75年に完成した。国内の上映を終えたぼくはバークレーにもどり、そこを拠点にアメリカ各地で上映の旅をつづけた。映画はオランダやオーストラリアなどでも上映された。川田くんと会う機会も次第に少なくなっていったが、テレビのドキュメンタリー番組で世界の辺境を渡り歩いているという話は耳にしていた。
その後いろいろあって、ぼくは伊東に移住し、ライブラリーづくりに参加することになった。そして何十箱もの段ボールの中身をつうじて、再び川田くんの面影と再開した。
箱をあけてみて、川田くんがヘビーな読書家だったことを、はじめた知った。写真集や映画関係の本が多いことには驚かなかったが、箱には文学、落語、社会問題など、じつに幅広い分野の本が、惜しげもなく大量に詰められていた。きっと書斎が空っぽになったに違いないと感じた。
なかの1箱にヒモで縛った3冊の本があり、メモ用紙が留められていた。メモには「もしこれが図書選択基準から外れているようなら、お手数ですが返送してください」とあった。彼が愛してやまないその本は土門拳の『筑豊の子供たち』と写真家ダイアン・アーバスの写真集2冊だった。
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土門拳 |
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Diane Arbus |
川田くんの気持ちが痛いほどにわかった。古希を過ぎ、残り時間を考えれば、愛蔵書を散逸させるよりは1箇所に保存してもらおう。そう思う気持ちはぼくも同じだ。だが、何十年も愛しつづけた3冊の本だけは、もし寄贈先に用がなければ、やはり返してもらい、手元に置いておこう。愛着を手放すことの悩ましさに深く共感した。川田くん、ありがとう。大切に保存させていただきます。
上野圭一
2013年2月23日土曜日
ブックオン
館長ブログ窓口(なんだかパス入れに閉じ込められているような気分だが)の左側「みんなで創る、みんなで集う・・・」に、「本の整理はしたいが、ブックオフの若造に捨て値をつけられ、せっかく集めた本が散逸することには耐えられない。そういう人が大勢いる」と書いた。
蔵書の大量寄贈者のひとりからもこんなメールが届いている。
「以前は古書店の主人とのやりとりを楽しみながら本を売ったりもしたものですが、ブックオフのような古書店が主流となってからは、逆に売らなくなってしまったように思います。たくさんの思いをこめて持ってているのに、バイト勤務の若者に二束三文の値段をつけられてしまう哀しさがあり、書棚とは別の場所に『保管書物』として収納してありました」
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ももせいづみ Official Site |
アトリエいづみを主宰するももせさんは日経ウーマン「女性のつくるホームページコンテスト」でグランプリ受賞、自由国民社「インターネット絵本コンテスト」優秀賞受賞などで知られている。みずからも20冊以上の著書をもつももせさんは大の本好き。
ももせさんはメールでこう続けている。
「(保管書物にあるような)本をライブラリーで引き取っていただけるのは本当にありがたいことです。家にあっても改めて読むことはあまりないので、役立てていただけるのであれば本も本望かと思います」
そうなのだ。ぼく自身もそうだが、ももせさんのような本好きは、本の立場に立ってものを考える。ブックをオフせずに、オンの状態にしておきたいのだ。
「オフ」は離れること、縁が切れることであり、「オン」は離れずに接していること。当ライブラリーがつくろうとしているのは、いわば「ブックオン」の状態を持続させるための、「本も本望」な時空間なのである。
上野圭一
2013年2月1日金曜日
「館長の定点観測」はじめての投稿
東京から伊東に転居して9年目を迎えた。
年ごとに東京に出る頻度が急落している。 数年前、伊東の名旅館「わかつき別邸」で文化人類学者の辻信一さんと対談し、その内容を大月書店が『スローメディスン』という本にしてくれた。
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辻信一さん |
若いころは辻さんのように軽々と移動していたが、昨今はすっかり足が重くなっている。 年のせいもあるが、伊東という土地のせいでもある。
相模湾から昇る朝日を拝み、森で遊ぶ色とりどりの小鳥たちを眺め、イヌたちと山を歩き、のんきな友人たちと談笑し、毎日、近くの旅館で温泉に浸っていると、もうどこにも行きたくなくなるのだ。
ごたぶんにもれず、伊東も不況のさなかにある。かつて賑わった安針通りもシャッター通りになっている。「わかつき別邸」も営業停止となった。 でも、海や森や温泉や人は変わらない。 しばらくはここに留まって、ライブラリーづくりのために動いてみよう。
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スローメディスン |
というわけで、ブログやツイッターというものを毛嫌いしていたぼくがはじめて書くこの欄のタイトルは「館長の定点観測」にきめた。 おつきあい願えれば幸いだ。
2013年2月1日
癒しと憩いのライブラリー
館長 上野圭一(翻訳家)
-> 癒しと憩いのライブラリー Official Site へ
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